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アメリカのワセダマン ―在米二十年の体験から―アメリカのワセダマン挿絵

 

早稲田学報表紙  1972年7月、私は早稲田卒業後
  約1年間勤めた、理工学部の
  隣にある、日本洋書販売配給
  株式会社を退社し、アメリカに
  渡りました。  
    ちょうどマクドナルド ハンバーガー
  が、銀座に第1号店を開けた数ヶ月後
  で、アメリカは今ほど日本人にとって
  身近な国ではなく、私にとっても、
  日本の若者にとっても、まだまだ憧れ
  の国でした。

現在は、ロスアンジェルス郊外のオレンジ
カウンティーに住み、11年前にカリフォルニア州政府のブローカー
のテストに合格以来、不動産エージェントとして働き始め、
センチュリー21というフランチャイズ不動産屋のロスアンジェルス郡、
オレンジ郡約八千名のエージェント中、トップ21という好成績を収め
ています。
   私は、幼稚園から高校まで、カトリック系の受験校で要領悪く、
真面目に過しすぎ、明るい楽しい思い出はあまりありません。
しかし早稲田入学以来、人生がパッと開けた感じで、渡米以後
それがますます活き活きとしてきたように思われます。
  当時は学生に人気のあったグレイハウンドのバスで、アメリカ
横断旅行をしながら、駐在員として滞米生活を送っている従姉妹
たちの家々を訪ねました。コロラド州デンバーの親戚の家に
滞在しているうち、コロラド大学に入学することになり、在学中、
或る日本人の学生と知り合い、この人と学生結婚をし、高一の
娘を頭に中一、小二の男の子二人、計三人の子供がいます。
 渡米以来、日系一世の方々をはじめ、数多くの方々にお世話
になってきましたが、早稲田の諸先輩には、特にお世話になり
ました。
  1974年、コロラド大学に通っていた頃早大レスリング部出身の
石原剛氏に巡り合いました。彼は当時、コロラド州デンバーで、
ジャパニーズキッチンという客席三十に満たない小さなレストラン
を開店したところでした。石原氏は、レスリングの海外遠征後、
米国に留まり、皿洗いやコックをしながら、何時の日にか米国
各地にレストランを開こうという夢を持ち続け、実現させていった
方で、このデンバーにおけるジャパニーズキッチンが、彼の開いた
最初のレストランでした。従業員は、日本体育大学をはじめ、
各大学のレスリング部出身の変形耳のお兄さんたちばかりでした。
レスリングは、マットに耳をこすることが多く、選手生活を長く続ける
と、耳が変形するのだそうです。ジャパニーズキッチン開店当時、
そういうお兄さんたちがハッピ姿で店頭に立ち、
    「いらっしゃーい、いらっしゃーい」 と大声で前を通るアメリカ
人に呼びかけ、日本レストランも少なかった当時のデンバーでは、
めずらしさも加わり、店は連日満員でした。私は早稲田在学中、
卓球部に属し、世界選手権出場の、鍵本、河原、田阪諸先輩、
柴田同輩と共に鍛えられてきたわけですが、ジャパニーズ
キッチンは、連日満員、そして従業員不足で、卓球部の強化合宿
をしのぐような充実した?毎日でした。従業員は、私をはじめ、
英会話の出来ない運動部出身者ばかり、また過酷な労働条件の
ため、アメリカ人従業員は全くいつかず、
  「こんな所で働けるか!」
と、悪態をついて一時間でやめていった皿洗いが何人もいました。
私は、レジ係、ウェイトレス等、一人で何役もこなし、店主の石原氏
も、カウンターの客の前で、天麩羅を揚げたかと思うと、後へ廻り
皿洗いをして出て来るといった具合でした。
 当時、デンバーの下宿先の親戚の八十歳になる一世の伯母が、
 「ウェイトレスは、よしなさい。日本のご両親に申しわけない。」 
と、何回も厳しい顔で店を覗きに来ましたが、今から振り返れば、
私にとって、ジャパニーズキッチンでの一年半の経験は、とてもプラス
になりました。石原夫妻に、「客には笑顔」と連日鍛えられ、ぼうっと
している性格が少しはましになったような気がします。
 当時、取得困難であった永住権も、 「早稲田の後輩だから、
やってやるか!」 と石原氏は、快く保証人になって下さり、私は、無事
永住権を取得しました。永住権取得に当たり、早稲田在学中に、英語
の教職を取っていたことが、大いに役に立ちました。 
  「将来、教師にならなくてもよいから、教職だけは取っておきなさい。」 
との母の助言、西洋史学専攻であった私へ、
 「社会科は男の先生が多く、教頭、校長になる人が多く、空が少ない。
  英語は、その点、空があり、就職しやすい。」
との親しい友人の助言に耳を傾けておいて本当によかったです。英語の
教職の紙一枚が「英語能力」の証しとなり、ジャパニーズキッチンの
「英語、日本語堪能」というカテゴリーに入り、アシスタントマネージャー
というタイトルで、永住権が手に入りました。
  料理も店の経営も、全くの素人であった石原氏も、現在では、米国
中西部で、レストランを数軒経営しておられます。  
  1976年、主人の仕事の関係で、カリフォルニア州に移り、80年より、
不動産の仕事をはじめました。講習会には、つとめて出席しましたが、
特に教えてくれる人もなく、仕事を始めた当時は、アメリカ人のエージェ
ントを観察し、見よう見まねで、ポツポツやっていました。約五十名ほど
の私の働いているオフィスのアメリカ人は、皆とても親切でした。
  今から振り返ると、この約五十名のアメリカ人の中で本当にプロとして、
仕事に重きを置いてがんばっているのは、五人くらいだった気がします。
大半の人は、自分が一番大切で、仕事以外に何かあり、マイペースで
やっています。11年、私は試行錯誤の繰り返しで、改善すべきことはして
きたつもりですが、アメリカ人は、11年前と全く変わりない人が多いです。
そういうアメリカ人を見て、進歩がない、努力が足りないと思う一方、この
人々は、せかせかと働きバチにならず、仕事を第一優先にしないため、
人間としての大切な暖かい思いやりの気持ちを持ち続けながら機会ある
ごとに、親切を実行していると感じることがあります。
  ロスアンジェルスの日系新聞、「羅府新報」に、「早稲田大学卒業」と
広告を入れ始めてから、仕事はどんどん増え、業績はどしどし上がり、
お客様の質もぐんと向上しました。早稲田の卒業生はもちろんのこと、
六大学の卒業生、自分は残念ながら早稲田に不合格だったが、兄貴は
卒業生、早稲田で古本屋をやっていたオバさん、下宿屋をやっていて、
学生さんにはさんざん泣かされたとはいうものの、やはり早稲田が大好き
なオジさん等々、早稲田に関係ある方は、増す一方です。
  現在、ロスアンジェルス稲門会の最高顧問で元会長であった
飯塚一三氏にも、大変お世話になりました。飯塚氏をはじめ、ロス稲門会
の諸先輩から、
  「アメリカでの不動産のエージェントは、プロとして確立した職業で
   あるから、プロに徹するように。昔の日本の保険外交おばさん的
  イメージはダメだ。服装、態度すべてに気をまわせ。」
等々、数々の叱咤激励を頂きました。飯塚氏からは、その他、ビジネス、
広告、いろいろな助言を頂き、助言に従うたびに、ビジネスも伸びました。
 先日も、ロス稲門会新年会に出席させて頂き、皆様の自己紹介をうかが
い、つくづくここロスアンジェルスには、多方面で活躍されていらっしゃる
先輩方が多いと感じました。
 中でも早稲田卒業後、カリフォルニア大学大学院(UCLA)を出られ、ロス
法曹界の第一人者でおられ、西原前総長と同級生の森純氏が、カリフォル
ニア大学から、一年に一人の卒業生に送られる特別賞を受けられた発表が
ありました。その時のスピーチで森氏は、
  「私は、ただ当り前のことをしてきました。移民として渡米した
  祖父にも父にも与えられなかった機会が自分に与えられたので、
  お手伝いして来たわけです。」
と、奉仕活動の結果受けられた賞について、淡々と述べられました。
私は森氏のスピーチにとても感銘を受けました。日本人として初めての素晴
らしい賞を受けられたことにはもちろんのことですが、
  「昔は、日本人に与えられなかった数々の機会が今は、与えられている。」
との点にです。私はアメリカに長く住むにつれ、私の世代、戦後日本が繁栄し
始めてから現在に至る間に渡米した、いわゆる新一世は、半世紀以上に亙る
一世の方々のご苦労、二世の方々のご努力の土台の上で、安心して生活
していけると感じます。仕事上も、日本人であるということで、他の国民からの
信用度が厚いことを感じることは、しばしばです。
 私は、渡米以来、日系人の築き上げた土台の上で、数多くの方々、特に
早稲田関係者のお陰で、仕事をさせていただいているという次第です。
文学部近くの「ジャルダン」という喫茶店で友達達とコーヒーを飲み、「姉妹」
というレストランで、カレーライスを食べ、「茶房」で暇をつぶし、「金城庵」で
コンパをやっていた頃、ここアメリカへ来て、こうも早稲田の方々にお世話に
なり、早稲田を懐かしく思い出すとは、夢にも思っておりませんでした。
(昭46西洋史) 
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